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マルティン・ルターの生涯⑥ 

農民戦争と宗教改革プロテスタント陣営との戦い
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 こうした礼拝の改革は、ウィッテンベルグはもとよりザクセン州の全体に広がっていきましたが、それに伴って領民の意識の変革をも生んでいきました。特に、重税に苦しんでいた農民たちが熱狂的な活動をしていたトマス・ミュンツァーなどの指導によって暴動を起こすようになっていったのです。それが、ドイツ農民戦争(1524-1525年)と呼ばれるものです。ドイツ国内の農民の暴動は十五世紀頃から頻繁に起こるようになっていましたが、マルティン・ルターが「聖書に書かれていていないことは受け入れられない」と語ったことが、「農民が領主に仕えることも聖書には書かれていない」ということにつながり、各地で一揆が起こりました。マルティン・ルターの教説が熱狂的な一部の教会、思想などに利用され、火に油を注ぐ形で暴動が広がっていったのです。トマス・ミュンツァーも農民たちを扇動した一人でした。
 トマス・ミュンツァーは、1519年にマルティン・ルターの信奉者の一人でした。もともとキリスト教神秘主義の流れを汲む人で、成人洗礼のみを認める(本人が自覚をして洗礼を受けること、信仰を持つことを強調した)再洗礼派と近づき、財産の共有を基礎とした社会改革を訴え、聖職者や資産家を攻撃していきました。彼の説教は農業や林業に携わっている労働者に受け入れられて、ドイツ各地で起こった農民一揆によって新政府の樹立を図り、反乱を先導して革命組織を作ろうとしました。領主たちはこれを徹底的に鎮圧しようとし、連合軍を作っていきます。トマス・ミュンツァーは、そのころからマルティン・ルターに敵対していきますが、最後はザクセン、ブラウンシュバイク、ヘッセン諸侯の連合軍に敗れて、捕らえられ、処刑されました。
 マルティン・ルターは、最初、貧苦に喘ぐ農民の側に立ってこれを支持していましたが、やがて暴動や扇動で党派的分裂が起こり、その暴力行為のあまりの凄まじさに、諸侯に協力してこれを鎮静化する方向へと転換していきました。そして、そのことが、マルティン・ルターがこれまで進めてきた「キリスト教改革」にも方向転換させることになったのです。マルティン・ルターはこの時の経験から、教会と信徒には何らかの制度が必要であることを感じ、領邦教会(国家教会)という新しい教会のあり方を模索していくようになるのです。それがルーテル教会(ルター派教会)となり、やがて西欧世界各地でのプロテスタント教会となっていったのです。
 ルターの論敵はローマ・カトリック教会と理解されることが多いのですが、中期から後期にかけては宗教改革陣営との論争が激しくなります。トマス・ミュンツァーやフルドリッヒ・ツヴィングリなどはその筆頭になります。それゆえルターの著作は自分の信仰理解を語る一方で論敵と戦うため、必ずしも初期の頃と同じであるとは言えません。
 マルティン・ルターは、この領邦教会(国家教会)の設立を進める傍ら、信仰教育のための『小教理問答書』と教師(牧師)向けの『大教理問答書』を著していますが、加えて、女子も含めた国民全体が教育を受けることができるように教育改革を行い、それまでのラテン語中心の教育ではなく、教養を深めていく人間教育を目指すものとしました。自らが経験してきた体罰による教育ではなく、子どもたちが喜んで学び、また遊ぶことができるような内容に変えていきましたし、礼拝における捧げ物も、教会と町の世話役が管理して貧しい人に分け与えられるようにしました。教会の維持は領邦(国家)がこれを担うようにしたのです。

カテゴリ: マルティン・ルター、ルーテル教会

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