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マルティン・ルターの生涯⑤ 

破門と幽閉中の働き
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 教会からの破門というのは社会的抹殺、身分の剥奪を受けたマルティン・ルターでしたが、かろうじてザクセン選帝侯フリードリッヒ三世に庇護されている状態を保つことができました。ドイツの皇帝カール五世はこの事態がマルティン・ルターとローマ・カトリック教会の間の問題だけではなく、ドイツを二分する問題になりかねないと考え、ヴォルムス帝国会議で審問を受けます。
 1521年4月、マルティン・ルターは身柄の保護だけを受けてヴォルムス帝国会議に召喚されました。マルティン・ルターの著作が並べられて、まず、これらの著作が自ら書いたものであるかどうかが尋ねられ、次いで、そこに記してある自説を撤回するかどうかが尋ねられました。「聖書に書かれていないことを認めることはできない。わたしはここ(聖書)に立っている。わたしはこうする以外のことはできない。神よ、わたしを助けてください」と語ったと言われています。もはやローマ・カトリック教会との対立は決定的となり、帝国会議ではマルティン・ルターの処分についての議論が行われました。
 マルティン・ルターは、帝国会議での決定が出る前にヴォルムスを去ります。そして帰路の途中で消息を絶ってしまうのです。これはマルティン・ルターを庇護していたフリードリッヒ三世が一計を案じたもので、襲われて誘拐されたと見せかけて、自分の城であるヴァルトブルク城に匿うものでした。
 教会からも国家からも追放され、騎士ゲオルクと名を変えてヴァルトブルク城に保護されたM.ルターは、追放者として、いわば幽閉されたような生活を余儀なくされてしまいますが、マルティン・ルターはそこで思索と著述に専念していきます。マルティン・ルターは後に約一年余に及ぶここでの生活の精神的苦痛を語りましたが、彼はそこで年来の望みであった新約聖書のドイツ語翻訳を完成させました。
 マルティン・ルターは新約聖書の原典であるギリシャ語テキストを元にして、人々が親しみを覚える平易なドイツ語を用いて訳しました。加えて発明されていたグーテンベルグの印刷機の活用で、次々と印刷されていき、広く読まれるものになっていきました。最初に出版されたのが1522年9月だったことから、初版本は「九月聖書」と呼ばれますが、一冊が牛一頭ほどもする値段だったにも関わらずに印刷された2000部はあっという間に売れ、同じ年に第二版が出されるほどで、以後、改訂が続けられていきました。
 他方、マルティン・ルターが不在となったウィッテンベルグは一種の混乱状態に陥っていきます。改革者を名乗るカールシュタットを中心とした人々や成人の洗礼のみを認めるなどの「再洗礼派」と呼ばれる人々が過激な行動をとるようになり、これまでのカトリック教会の支配体制に対する怒りも爆発して、旧来の教会を破壊したりしました。
 マルティン・ルターはそれを聞き、事態を憂慮して、国外追放(法律の守りがない状態)の身ではありましたが、ヴァルトブルク城を出て、ウィッテンベルグに姿を現します。彼はウィッテンベルグの諸教会で説教を行い、過激な行動や暴力を伴う改革を否定し、新しい礼拝を定め、説教と著作活動を行なって、事態を安定化させることに尽力していきます。説教を中心にした礼拝で人々が聖書に直接触れる機会を多く作るように努力し、讃美歌もドイツ語に翻訳して会衆が歌えるようにしました。また、自らも讃美歌を作り、司祭中心の祭儀から会衆も共に参加する礼拝へと形を変えていきました。

カテゴリ: マルティン・ルター、ルーテル教会

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