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マルティン・ルターの生涯④ 

宗教改革三大文書
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 1520年にマルティン・ルターは、宗教改革の三大文書とも言われる『ドイツのキリスト者貴族に与える書』、『教会のバビロン捕囚』、『キリスト者の自由』を相次いで出しました。それは、これまでマルティン・ルターがキリスト教信仰と教会について考えてきた事柄を具体的な事柄に即してまとめたもので、『ドイツのキリスト者貴族に与える書』では、「聖書に書かれていないことは認められない」という姿勢から当時のローマ・カトリック教会がもっていた聖職位階制度を問題にしていきました。この書物の正式な書名は『キリスト教界の改善に関してドイツのキリスト者貴族に与える書』で、文字通り、キリスト教会のあり方を問題にしたもので、「神の恵みの構造」が当時のキリスト教会の職階制度には依らないことを明確にしようとしたものでした。この考えが色々な誤解を生みますが、後の「万人祭司」の考え、つまり「キリスト教会の司祭を仲介して初めて神の前に出ることができるというのではなく、すべてのキリスト者ひとりひとりが神の前に出ることができ、神の恵みを受けることができ、神の前ではひとりひとりの全てが司祭である」という考えになります。それゆえ、ここから誰もが手に取り、誰もが理解できるように聖書の自国語の翻訳や修道院の開放が起こりました。マルティン・ルターの眼目は、聖なるものを俗に還元し、俗なるものを聖に引き上げ、等しく神の前に立つものとするということでしたが、しかし、これは、それまで聖と俗を明瞭に区別することにより成り立ってきた中世の西欧社会の構造を根本的に覆すことにつながり、行き過ぎた熱狂的な行為も生んでしまい、各地で、聖職者の全面否定や教会の破壊ということも起こるようになってしまいました。
 『ドイツのキリスト者貴族に与える書』の約三ヶ月後に出された『教会のバビロニア捕囚』は純粋に神学的問題を取り扱ったものですが、教皇制度の下に置かれているキリスト者をバビロニアの支配下に置かれた人々になぞらえた表題は刺激的ですし、教皇制度への熾烈な批判を辛辣な言葉で語っています。その辛辣さは目を覆うほどですが、マルティン・ルターがここで問題にしたのは、中世カトリック教会における「七つの秘蹟」の問題です。マルティン・ルターはこれらの「七つの秘蹟」(洗礼、聖餐(聖体拝領)、堅信、告解(ゆるし)、塗油(病者や臨終者への塗油)、叙階、結婚の七つ)を純粋に神の恵みの業に属するものと人間の行為に属するものに分け、「聖別されたもの」、あるいは「聖なるもの」という意味のサクラメントに当たるものは洗礼と聖餐だけであり、しかも、聖餐は「聖体拝領」というようなものではなく、聖書に記されているようにパンと同時にぶどう酒も与えられるべきだと主張したのです一種陪餐ではなく、二種陪餐こそがキリストの示されたことだと語ったのです。
 そして、「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも従属していない」と同時に、「キリスト者はすべてのものに奉仕する僕(しもべ)であって、誰にも従属している」という二つの提題で始まる『キリスト者の自由』は、二〇頁ほどの小さな書物ですが、ここにマルティン・ルターの神学思想とこれまで展開されてきたことのすべてが平易に集約されています。彼はここで「キリスト者は信仰で十分であり、義とされるために何の行いも必要としなければ、すべての戒めと掟とから開放されてもいる。彼が開放されているなら、たしかに自由であるのだ。これがキリスト者の自由であり、唯一の信仰である」と語り、また「ほんとうに私の神は、価値のない、呪われるべき人間であるこの私に、何の功績もないのに、まったくただで、純粋の憐れみから、キリストを通して、またキリストにおいて、すべての義と祝福に満ちあふれる富を与えてくださった。そこで私は、その後そのとおりだと信ずることのほか何も必要としない。ああ、このように、ありあまる財宝を注ぎ与えてくださった、こういう父に向かって、私もまた自由に、喜んで、報いを求めず、神の喜びたもうことをしよう。そしてキリストが私に対してなってくださったように、私も隣人に対してキリストのようになろう。そして隣人にとって必要、有益にして祝福と思われることのほかは何も行わないようにしよう。私はほんとうに信仰によって、キリストにおいてすべてのものを十分にもっているのだから」と語ります。ここには、彼が到達した「信仰義忍」と「信仰と行為」が余すところ無く述べられているといえるでしょう。
 この三つの書物で、マルティン・ルターの当時のローマ・カトリック教会への批判は精鋭化されていきますが、ローマ・カトリック教会側は様々な手段でマルティン・ルターに自説の撤回を求めていきました。教皇レオ十世は、マルティン・ルターに対して撤回しなければ破門にするとの警告を出していきますが、1520年12月にマルティン・ルターは、その書状をウィッテンベルグの市民の前で焼いて、これを拒絶し、ついに、ローマ教皇の回勅によって、1521年に破門が正式に決められてしまいます。

カテゴリ: マルティン・ルター、ルーテル教会

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