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マルティン・ルターの生涯③ 

贖宥状販売の問題と95ヵ条の提題の掲示
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当時の西方教会では、罪の許しは、まず自らが罪を悔いること(痛悔)、そして、司祭に罪を告白して許しを請い(告解)、さらにその許しに見合う贖いをすること(贖宥)という段階を通って行われると考えられていました。自分の罪の許し、また家族の罪の許しの完成のために贖宥状を買うことが必要、それで大丈夫ということであれば、多くの信徒がそれを買い求めたのです。
 そして、11世紀から12世紀にかけて行われていた十字軍の時代に、ローマ・カトリック教会は十字軍に従軍した者には贖宥状を発行し、従軍できない者は寄進(献金)によってこれに代わるものとしました。聖地エルサレムの奪還は罪の贖いの善行であると強調されました。そして、1300年には、この年を聖なる年として教皇庁はローマへの巡礼を勧め、ローマに巡礼すれば贖宥が与えられるとし、巡礼できない者は贖宥を買うことによってそれに変えることができると説いて、贖宥状の販売を熱心におこなっていたのでした。そして、ルターの時代に教皇レオ十世がサン・ピエトロ大聖堂のための全贖宥を公示して、贖宥状購入者に全免責を与えると布告しました。つまり、これを買えばすべての罪がゆるされると布告したわけです。
 ローマ・カトリック教会の総本部が置かれているバチカンのサン・ピエトロ大聖堂の創建は4世紀頃ですが、現在残されている2代目の大聖堂の建築が1506年に始まり、1514年の建築主任はラファエロでした。また、ミケランジェロが1547年に建築主任となり、ドームの完成はミケランジェロの死後30年ほどたった1593年でした。
 ルターの時代、ドイツでは、とりわけ熱心に贖宥状の販売が行われていました。贖宥状の販売は、教会の財政政策の大きなものとなっていました。実際は盛大な会堂建築のための建築献金、聖祭のための特別献金だったのです。各地で贖宥状販売を促進されていきました。ヨハン・テッツェルという人は「贖宥状を購入してコインが箱にチャリンと音を立てて入ると霊魂が天国へ飛び上がる」と語ったと伝えられており、贖宥状はよく売れ、司教、教会には多額のお金が集まりました。
 罪のゆるしと贖いが、なんの悔い改めもなく行われることに疑問を感じたマルティン・ルターは、大司教アルブレヒトの贖宥行為には乱用があるのではないかと感じ、1517年10月31日、奉職していたウィッテンベルグ大学の城教会の扉に、それについての意見交換(議論の呼び掛け)を目的として「95ヵ条からなる提題」を掲げたのです。内容は未熟なものでしたが、「キリスト者の生涯は悔い改めの生涯ではないか。それはキリスト者の内面の問題であり、外的な行為の問題ではないのではないか」といったことが主張されていました。これがやがて様々な思惑の中で政治問題化し、思わぬ政治的・社会的な要因が加わって宗教改革の大きな運動になっていったのです。
 このときマルティン・ルターが呼びかけた公開討論会は結局一度も開かれることはありませんでしたが、マルティン・ルターの周囲には彼の意見に賛同する人たちが集まってきました。同時にルターの友人の中には離れていくものもあり、ルター個人としては厳しい立場におかれてきました。贖宥状販売を促進させていた大司教もこの問題をローマの教皇庁に訴え、ローマ教皇庁は、マルティン・ルターが所属していた修道会の総会でルターを諭して穏便に解決するように命じます。この総会で、マルティン・ルターは自説を熱心に語り、さらに、自分の意見を書面にして提出しました。それによって、ルターの考えは教皇庁が査察する事態に発展していったのです。
 こうして問題が大きくなり、マルティン・ルターはローマに召喚されそうになりましたので、彼が属していたウィッテンベルグ大学の創設者でもあったザクセンの選帝侯フリードリッヒ三世に庇護を求めていきます。フリードリッヒ三世は自国の領土内での贖宥状の販売を認めていませんでした。ローマ教皇庁にも影響を持つ彼の庇護のもと、ローマではなくアウグスブルグで審問が開かれ、審問会の席上で贖宥の問題に対する疑義の撤回をマルティン・ルターに求めますが、マルティン・ルターは「聖書に明白な根拠がない限り認められない」と主張を展開しました。ルターも自身の身の危険を感じるようになり、またルターを支持する人々との論争も起こり、事態は混乱していくばかりでした。
 マルティン・ルターの身分はずっとウィッテンベルグ大学の教授のままに保たれましたが、マルティン・ルターとローマ・カトリックの教皇庁の対立の図式は政治的にますます深められ、その対立が決定的なものとなっていきました。マルティン・ルターのもとには彼の賛同者たちが集まり、それによってまた対立の構図が大きくなっていったのです。

カテゴリ: マルティン・ルター、ルーテル教会

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