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マルティン・ルターの生涯⑦ 

ルターの最期

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 マルティン・ルターは聖職者の独身制にも疑義を持ち、 修道院の開放と多くの聖職者の結婚を勧め、自身も1525年、41歳の時に、修道女であった15歳年下のカタリーナと結婚し、三男三女をもうけました。
 1530年、ドイツ帝国議会はルター派を支持するプロテスタント諸侯とカトリック教会との和解を模索し、アウグスブルグで帝国議会を開催しました。しかし、有力な領邦の諸侯たちはマルティン・ルターを支持していました。そして、この時、マルティン・ルターと盟友のメランヒトンが『アウグスブルグ信仰告白』を皇帝に提出しました。これは最初の信仰宣言であり、以後、ルター派教会は、この信仰告白に基づいて形成されることとなりました。
 マルティン・ルターが意図した領邦教会(国家教会)という形態は、ザクセン選帝侯のフリードリッヒ三世を初めとする諸侯の協力を得て、順調に機能していくようになり、1534年には念願だった旧約聖書のドイツ語訳も完成させました。
 この領邦教会(国家教会)という形態は以後に西欧諸国の社会形成に大きな影響を与え、1530年前後にイギリスの国王ヘンリー八世は、1533年にイングランドが独立した「帝国」であることを宣言し、1534年に自らをイングランド国教会の長であるとしてローマ・カトリック教会から離脱して、国家=国家教会の形をとりました。北欧諸国もまた、マルティン・ルターの宗教改革を支持すると同時に、教会=国家という形態を取り、ローマ・カトリック教会の支配から離脱していきました。
 1806年まで存続した神聖ローマ帝国内(ドイツ)では、ローマ・カトリック教会とプロテスタント教会(ルター派・ルーテル教会)に分裂した状態が続きましたが、1538年の「アウグスブルグの和議」によって正式にプロテスタントの信仰が認められると共に、領邦教会を形成することによって領邦の独立性が強められ、これが後に(1618年)「三十年戦争」と呼ばれる事態にまで発展し、領邦の主権を認めるまでになっていきました。
 マルティン・ルターは、1546年に故郷アイスレーベンで生涯を閉じます。彼が少年期を過ごしたマンスフェルトの領主の家庭内の争いの調定に呼ばれたマルティン・ルターは、精力的に領内の各地での説教もしていきますが、この旅の途中で生誕地のアイスレーベンに立ち寄ったときに、発作を起こして死去しました。62歳と半年余の生涯でした。
 マルティン・ルターの宗教改革は元々は信仰のあり方の見直し、信仰改革が目的でした。「信仰のみ、聖書のみ、恵みのみ」にそのことは現されています。良くも悪くも マルティン・ルターの働きは教会のみならず、世界に大きな問いかけをし、ドイツ国内だけではなく、教会と社会が大きく変化していくきっかけになったのでした。
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マルティン・ルターの生涯⑥ 

農民戦争と宗教改革プロテスタント陣営との戦い
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 こうした礼拝の改革は、ウィッテンベルグはもとよりザクセン州の全体に広がっていきましたが、それに伴って領民の意識の変革をも生んでいきました。特に、重税に苦しんでいた農民たちが熱狂的な活動をしていたトマス・ミュンツァーなどの指導によって暴動を起こすようになっていったのです。それが、ドイツ農民戦争(1524-1525年)と呼ばれるものです。ドイツ国内の農民の暴動は十五世紀頃から頻繁に起こるようになっていましたが、マルティン・ルターが「聖書に書かれていていないことは受け入れられない」と語ったことが、「農民が領主に仕えることも聖書には書かれていない」ということにつながり、各地で一揆が起こりました。マルティン・ルターの教説が熱狂的な一部の教会、思想などに利用され、火に油を注ぐ形で暴動が広がっていったのです。トマス・ミュンツァーも農民たちを扇動した一人でした。
 トマス・ミュンツァーは、1519年にマルティン・ルターの信奉者の一人でした。もともとキリスト教神秘主義の流れを汲む人で、成人洗礼のみを認める(本人が自覚をして洗礼を受けること、信仰を持つことを強調した)再洗礼派と近づき、財産の共有を基礎とした社会改革を訴え、聖職者や資産家を攻撃していきました。彼の説教は農業や林業に携わっている労働者に受け入れられて、ドイツ各地で起こった農民一揆によって新政府の樹立を図り、反乱を先導して革命組織を作ろうとしました。領主たちはこれを徹底的に鎮圧しようとし、連合軍を作っていきます。トマス・ミュンツァーは、そのころからマルティン・ルターに敵対していきますが、最後はザクセン、ブラウンシュバイク、ヘッセン諸侯の連合軍に敗れて、捕らえられ、処刑されました。
 マルティン・ルターは、最初、貧苦に喘ぐ農民の側に立ってこれを支持していましたが、やがて暴動や扇動で党派的分裂が起こり、その暴力行為のあまりの凄まじさに、諸侯に協力してこれを鎮静化する方向へと転換していきました。そして、そのことが、マルティン・ルターがこれまで進めてきた「キリスト教改革」にも方向転換させることになったのです。マルティン・ルターはこの時の経験から、教会と信徒には何らかの制度が必要であることを感じ、領邦教会(国家教会)という新しい教会のあり方を模索していくようになるのです。それがルーテル教会(ルター派教会)となり、やがて西欧世界各地でのプロテスタント教会となっていったのです。
 ルターの論敵はローマ・カトリック教会と理解されることが多いのですが、中期から後期にかけては宗教改革陣営との論争が激しくなります。トマス・ミュンツァーやフルドリッヒ・ツヴィングリなどはその筆頭になります。それゆえルターの著作は自分の信仰理解を語る一方で論敵と戦うため、必ずしも初期の頃と同じであるとは言えません。
 マルティン・ルターは、この領邦教会(国家教会)の設立を進める傍ら、信仰教育のための『小教理問答書』と教師(牧師)向けの『大教理問答書』を著していますが、加えて、女子も含めた国民全体が教育を受けることができるように教育改革を行い、それまでのラテン語中心の教育ではなく、教養を深めていく人間教育を目指すものとしました。自らが経験してきた体罰による教育ではなく、子どもたちが喜んで学び、また遊ぶことができるような内容に変えていきましたし、礼拝における捧げ物も、教会と町の世話役が管理して貧しい人に分け与えられるようにしました。教会の維持は領邦(国家)がこれを担うようにしたのです。

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マルティン・ルターの生涯⑤ 

破門と幽閉中の働き
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 教会からの破門というのは社会的抹殺、身分の剥奪を受けたマルティン・ルターでしたが、かろうじてザクセン選帝侯フリードリッヒ三世に庇護されている状態を保つことができました。ドイツの皇帝カール五世はこの事態がマルティン・ルターとローマ・カトリック教会の間の問題だけではなく、ドイツを二分する問題になりかねないと考え、ヴォルムス帝国会議で審問を受けます。
 1521年4月、マルティン・ルターは身柄の保護だけを受けてヴォルムス帝国会議に召喚されました。マルティン・ルターの著作が並べられて、まず、これらの著作が自ら書いたものであるかどうかが尋ねられ、次いで、そこに記してある自説を撤回するかどうかが尋ねられました。「聖書に書かれていないことを認めることはできない。わたしはここ(聖書)に立っている。わたしはこうする以外のことはできない。神よ、わたしを助けてください」と語ったと言われています。もはやローマ・カトリック教会との対立は決定的となり、帝国会議ではマルティン・ルターの処分についての議論が行われました。
 マルティン・ルターは、帝国会議での決定が出る前にヴォルムスを去ります。そして帰路の途中で消息を絶ってしまうのです。これはマルティン・ルターを庇護していたフリードリッヒ三世が一計を案じたもので、襲われて誘拐されたと見せかけて、自分の城であるヴァルトブルク城に匿うものでした。
 教会からも国家からも追放され、騎士ゲオルクと名を変えてヴァルトブルク城に保護されたM.ルターは、追放者として、いわば幽閉されたような生活を余儀なくされてしまいますが、マルティン・ルターはそこで思索と著述に専念していきます。マルティン・ルターは後に約一年余に及ぶここでの生活の精神的苦痛を語りましたが、彼はそこで年来の望みであった新約聖書のドイツ語翻訳を完成させました。
 マルティン・ルターは新約聖書の原典であるギリシャ語テキストを元にして、人々が親しみを覚える平易なドイツ語を用いて訳しました。加えて発明されていたグーテンベルグの印刷機の活用で、次々と印刷されていき、広く読まれるものになっていきました。最初に出版されたのが1522年9月だったことから、初版本は「九月聖書」と呼ばれますが、一冊が牛一頭ほどもする値段だったにも関わらずに印刷された2000部はあっという間に売れ、同じ年に第二版が出されるほどで、以後、改訂が続けられていきました。
 他方、マルティン・ルターが不在となったウィッテンベルグは一種の混乱状態に陥っていきます。改革者を名乗るカールシュタットを中心とした人々や成人の洗礼のみを認めるなどの「再洗礼派」と呼ばれる人々が過激な行動をとるようになり、これまでのカトリック教会の支配体制に対する怒りも爆発して、旧来の教会を破壊したりしました。
 マルティン・ルターはそれを聞き、事態を憂慮して、国外追放(法律の守りがない状態)の身ではありましたが、ヴァルトブルク城を出て、ウィッテンベルグに姿を現します。彼はウィッテンベルグの諸教会で説教を行い、過激な行動や暴力を伴う改革を否定し、新しい礼拝を定め、説教と著作活動を行なって、事態を安定化させることに尽力していきます。説教を中心にした礼拝で人々が聖書に直接触れる機会を多く作るように努力し、讃美歌もドイツ語に翻訳して会衆が歌えるようにしました。また、自らも讃美歌を作り、司祭中心の祭儀から会衆も共に参加する礼拝へと形を変えていきました。

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マルティン・ルターの生涯④ 

宗教改革三大文書
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 1520年にマルティン・ルターは、宗教改革の三大文書とも言われる『ドイツのキリスト者貴族に与える書』、『教会のバビロン捕囚』、『キリスト者の自由』を相次いで出しました。それは、これまでマルティン・ルターがキリスト教信仰と教会について考えてきた事柄を具体的な事柄に即してまとめたもので、『ドイツのキリスト者貴族に与える書』では、「聖書に書かれていないことは認められない」という姿勢から当時のローマ・カトリック教会がもっていた聖職位階制度を問題にしていきました。この書物の正式な書名は『キリスト教界の改善に関してドイツのキリスト者貴族に与える書』で、文字通り、キリスト教会のあり方を問題にしたもので、「神の恵みの構造」が当時のキリスト教会の職階制度には依らないことを明確にしようとしたものでした。この考えが色々な誤解を生みますが、後の「万人祭司」の考え、つまり「キリスト教会の司祭を仲介して初めて神の前に出ることができるというのではなく、すべてのキリスト者ひとりひとりが神の前に出ることができ、神の恵みを受けることができ、神の前ではひとりひとりの全てが司祭である」という考えになります。それゆえ、ここから誰もが手に取り、誰もが理解できるように聖書の自国語の翻訳や修道院の開放が起こりました。マルティン・ルターの眼目は、聖なるものを俗に還元し、俗なるものを聖に引き上げ、等しく神の前に立つものとするということでしたが、しかし、これは、それまで聖と俗を明瞭に区別することにより成り立ってきた中世の西欧社会の構造を根本的に覆すことにつながり、行き過ぎた熱狂的な行為も生んでしまい、各地で、聖職者の全面否定や教会の破壊ということも起こるようになってしまいました。
 『ドイツのキリスト者貴族に与える書』の約三ヶ月後に出された『教会のバビロニア捕囚』は純粋に神学的問題を取り扱ったものですが、教皇制度の下に置かれているキリスト者をバビロニアの支配下に置かれた人々になぞらえた表題は刺激的ですし、教皇制度への熾烈な批判を辛辣な言葉で語っています。その辛辣さは目を覆うほどですが、マルティン・ルターがここで問題にしたのは、中世カトリック教会における「七つの秘蹟」の問題です。マルティン・ルターはこれらの「七つの秘蹟」(洗礼、聖餐(聖体拝領)、堅信、告解(ゆるし)、塗油(病者や臨終者への塗油)、叙階、結婚の七つ)を純粋に神の恵みの業に属するものと人間の行為に属するものに分け、「聖別されたもの」、あるいは「聖なるもの」という意味のサクラメントに当たるものは洗礼と聖餐だけであり、しかも、聖餐は「聖体拝領」というようなものではなく、聖書に記されているようにパンと同時にぶどう酒も与えられるべきだと主張したのです一種陪餐ではなく、二種陪餐こそがキリストの示されたことだと語ったのです。
 そして、「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも従属していない」と同時に、「キリスト者はすべてのものに奉仕する僕(しもべ)であって、誰にも従属している」という二つの提題で始まる『キリスト者の自由』は、二〇頁ほどの小さな書物ですが、ここにマルティン・ルターの神学思想とこれまで展開されてきたことのすべてが平易に集約されています。彼はここで「キリスト者は信仰で十分であり、義とされるために何の行いも必要としなければ、すべての戒めと掟とから開放されてもいる。彼が開放されているなら、たしかに自由であるのだ。これがキリスト者の自由であり、唯一の信仰である」と語り、また「ほんとうに私の神は、価値のない、呪われるべき人間であるこの私に、何の功績もないのに、まったくただで、純粋の憐れみから、キリストを通して、またキリストにおいて、すべての義と祝福に満ちあふれる富を与えてくださった。そこで私は、その後そのとおりだと信ずることのほか何も必要としない。ああ、このように、ありあまる財宝を注ぎ与えてくださった、こういう父に向かって、私もまた自由に、喜んで、報いを求めず、神の喜びたもうことをしよう。そしてキリストが私に対してなってくださったように、私も隣人に対してキリストのようになろう。そして隣人にとって必要、有益にして祝福と思われることのほかは何も行わないようにしよう。私はほんとうに信仰によって、キリストにおいてすべてのものを十分にもっているのだから」と語ります。ここには、彼が到達した「信仰義忍」と「信仰と行為」が余すところ無く述べられているといえるでしょう。
 この三つの書物で、マルティン・ルターの当時のローマ・カトリック教会への批判は精鋭化されていきますが、ローマ・カトリック教会側は様々な手段でマルティン・ルターに自説の撤回を求めていきました。教皇レオ十世は、マルティン・ルターに対して撤回しなければ破門にするとの警告を出していきますが、1520年12月にマルティン・ルターは、その書状をウィッテンベルグの市民の前で焼いて、これを拒絶し、ついに、ローマ教皇の回勅によって、1521年に破門が正式に決められてしまいます。

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マルティン・ルターの生涯③ 

贖宥状販売の問題と95ヵ条の提題の掲示
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当時の西方教会では、罪の許しは、まず自らが罪を悔いること(痛悔)、そして、司祭に罪を告白して許しを請い(告解)、さらにその許しに見合う贖いをすること(贖宥)という段階を通って行われると考えられていました。自分の罪の許し、また家族の罪の許しの完成のために贖宥状を買うことが必要、それで大丈夫ということであれば、多くの信徒がそれを買い求めたのです。
 そして、11世紀から12世紀にかけて行われていた十字軍の時代に、ローマ・カトリック教会は十字軍に従軍した者には贖宥状を発行し、従軍できない者は寄進(献金)によってこれに代わるものとしました。聖地エルサレムの奪還は罪の贖いの善行であると強調されました。そして、1300年には、この年を聖なる年として教皇庁はローマへの巡礼を勧め、ローマに巡礼すれば贖宥が与えられるとし、巡礼できない者は贖宥を買うことによってそれに変えることができると説いて、贖宥状の販売を熱心におこなっていたのでした。そして、ルターの時代に教皇レオ十世がサン・ピエトロ大聖堂のための全贖宥を公示して、贖宥状購入者に全免責を与えると布告しました。つまり、これを買えばすべての罪がゆるされると布告したわけです。
 ローマ・カトリック教会の総本部が置かれているバチカンのサン・ピエトロ大聖堂の創建は4世紀頃ですが、現在残されている2代目の大聖堂の建築が1506年に始まり、1514年の建築主任はラファエロでした。また、ミケランジェロが1547年に建築主任となり、ドームの完成はミケランジェロの死後30年ほどたった1593年でした。
 ルターの時代、ドイツでは、とりわけ熱心に贖宥状の販売が行われていました。贖宥状の販売は、教会の財政政策の大きなものとなっていました。実際は盛大な会堂建築のための建築献金、聖祭のための特別献金だったのです。各地で贖宥状販売を促進されていきました。ヨハン・テッツェルという人は「贖宥状を購入してコインが箱にチャリンと音を立てて入ると霊魂が天国へ飛び上がる」と語ったと伝えられており、贖宥状はよく売れ、司教、教会には多額のお金が集まりました。
 罪のゆるしと贖いが、なんの悔い改めもなく行われることに疑問を感じたマルティン・ルターは、大司教アルブレヒトの贖宥行為には乱用があるのではないかと感じ、1517年10月31日、奉職していたウィッテンベルグ大学の城教会の扉に、それについての意見交換(議論の呼び掛け)を目的として「95ヵ条からなる提題」を掲げたのです。内容は未熟なものでしたが、「キリスト者の生涯は悔い改めの生涯ではないか。それはキリスト者の内面の問題であり、外的な行為の問題ではないのではないか」といったことが主張されていました。これがやがて様々な思惑の中で政治問題化し、思わぬ政治的・社会的な要因が加わって宗教改革の大きな運動になっていったのです。
 このときマルティン・ルターが呼びかけた公開討論会は結局一度も開かれることはありませんでしたが、マルティン・ルターの周囲には彼の意見に賛同する人たちが集まってきました。同時にルターの友人の中には離れていくものもあり、ルター個人としては厳しい立場におかれてきました。贖宥状販売を促進させていた大司教もこの問題をローマの教皇庁に訴え、ローマ教皇庁は、マルティン・ルターが所属していた修道会の総会でルターを諭して穏便に解決するように命じます。この総会で、マルティン・ルターは自説を熱心に語り、さらに、自分の意見を書面にして提出しました。それによって、ルターの考えは教皇庁が査察する事態に発展していったのです。
 こうして問題が大きくなり、マルティン・ルターはローマに召喚されそうになりましたので、彼が属していたウィッテンベルグ大学の創設者でもあったザクセンの選帝侯フリードリッヒ三世に庇護を求めていきます。フリードリッヒ三世は自国の領土内での贖宥状の販売を認めていませんでした。ローマ教皇庁にも影響を持つ彼の庇護のもと、ローマではなくアウグスブルグで審問が開かれ、審問会の席上で贖宥の問題に対する疑義の撤回をマルティン・ルターに求めますが、マルティン・ルターは「聖書に明白な根拠がない限り認められない」と主張を展開しました。ルターも自身の身の危険を感じるようになり、またルターを支持する人々との論争も起こり、事態は混乱していくばかりでした。
 マルティン・ルターの身分はずっとウィッテンベルグ大学の教授のままに保たれましたが、マルティン・ルターとローマ・カトリックの教皇庁の対立の図式は政治的にますます深められ、その対立が決定的なものとなっていきました。マルティン・ルターのもとには彼の賛同者たちが集まり、それによってまた対立の構図が大きくなっていったのです。

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